関ヶ原の戦いの場所ってどこ?戦場跡の今を徹底ガイド!
「関ヶ原の戦いの古戦場に行ってみたい!!!」
だけど…
「古戦場って何があるの?」
「そもそも関ケ原ってどこ?」
「どうやって行くのが便利なの?」
こういったあなたの疑問、解決します!
さあ歴史ロマンを感じる旅に出かけましょう!!
【筆者プロフィール】 K.T.
岐阜県在住の歴史好き・旅行好きの30代男性。
戦国時代のロマンに魅せられ、特に地元・関ケ原の歴史に深い愛情を持つ。休日には戦国ゆかりの地を巡り、リアルな戦場の空気を感じることがライフワーク。
「関ケ原の魅力をもっと多くの人に伝えたい!」という想いから、歴史の面白さや現地でしか味わえない体験を発信中。関ヶ原の戦跡巡りのポイントや、戦国ファン必見のスポット情報も紹介。歴史好きな人に楽しんでもらえるよう、わかりやすく・奥深い情報を届けます!
1.関ヶ原の戦いの場所ってどこ?
関ヶ原の戦いは、日本の歴史の中でも最も有名な合戦の一つです。
この歴史的な合戦が繰り広げられた「関ケ原」とは、一体どのような場所だったのでしょうか?
関ケ原の戦いが行われた場所は現在の岐阜県不破郡関ケ原町です。関ケ原町は岐阜県の南西端に位置し滋賀県と県境を接する自治体です。
古来より東西の交通の要衝として知られ東西・南北の主要な街道である中山道と北国街道、伊勢街道が交わる地であります。そのため天武天皇が7世紀後半に設置した「不破関」が関ケ原町にあります。古代日本史上最大の戦乱とされる「壬申の乱」も関ケ原町が舞台となりました。
また東西文化の境目でもあります。
・カップうどんも関ケ原町では関東のカツオだしと関西の昆布だし、両方の味が売られています。
・エスカレーターに乗る際、一般的には東日本が左側、西日本が右側に寄って立つとされていますがこの境目も関ケ原だといわれています。(JR関ケ原駅にはエスカレーターがないため隣のJR垂井駅になります)
・老舗和菓子店では関東風の角餅と関西風の丸餅が販売されているところもあります。
関ヶ原の戦いは、まさに「天下分け目」にふさわしいですね。
↑日本地図で見ると本当に日本の真ん中辺りだとわかりますよね。
2.関ヶ原の戦い布陣図
天下分け目といわれる「関ヶ原の戦い」。
1600年9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とした西軍が激突し、日本の歴史を大きく変える合戦となりました。開戦時の兵力は、両軍合わせて約17万(諸説あり)にもおよび、特に先に関ケ原へ布陣した西軍は地形的に有利とされていました。
しかし、結果的には東軍の圧勝。なぜ西軍が有利な優位な布陣を敷きながら敗北したのか、その背景を探っていきましょう。
関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍の勝利で終わりました。戦闘開始からわずか数時間で、西軍は総くずれとなり、指導者となった石田三成や他の主要武将たちは敗走。戦後、多くの西軍方の武将が処刑され、徳川家康は天下統一へと大きく前進しました。
一見、西軍は有利な陣形を取っていました。このことは明治時代、日本陸軍の創成を支えた軍人クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルがこの布陣図を一目見て即座に「西軍の勝ちだ」といったとされる逸話も残っています。
実際、西軍は戦場の高地を占め、数の上でも東軍と拮抗していました。しかし、西軍の敗因は内部の結束の弱さにありました。
・寝返りの発生:
西軍に属していた小早川秀秋をはじめ、一部の武将が戦闘中に東軍側に寝返りました。特に小早川隊が松尾山を下りて大谷隊へ攻撃を仕掛けたことで、西軍は一気に混乱し戦線の崩壊につながりました。
・西軍の指揮系統の弱さ:
西軍の総大将である毛利輝元は大坂城にとどまり、実際の指揮は石田三成が執っていました。しかし、毛利家や島津家などの西軍主要武将との意思統一が取れておらず、彼らは積極的に戦闘に参加しませんでした。
・徳川家康の巧みな戦略:
家康は戦前から西軍側の武将たちに対し調略を行い、寝返りを仕掛ける工作をしていました。実際、西軍側の武将に送った多くの書状が残されています。その結果、戦場では東軍側に寝返る武将が続出し、西軍は士気を失っていきました。
・徳川家康と石田三成の違い:
豊臣政権において徳川家康は五大老の一人でありそのなかでも特段と地位を築いていました。官位官職も正二位・内大臣と他の大老よりも高く、関八州255万石余を所領としていました。一方、石田三成は五奉行の一人で、石高も近江佐和山19万石とその差は明らかでした。そのため西軍の総大将を五大老の一人である毛利輝元にせねばならず戦後の褒賞における信用度では家康が何枚も上でした。
■筆者の考え
関ヶ原の戦いは、単なる軍事力の差ではなく、戦略・調略・武将の結束力が勝敗を決めた戦でした。西軍が地形的に有利だったとしても、内部のまとまりが欠けていたことが致命的な敗因となったのです。
一方、徳川家康は事前の調略で布石を打ち、戦場での迅速な判断力で勝利を引き寄せました。つまり、この戦いは「戦場での戦い」だけでなく、「戦う前の準備と策略」が勝敗を分けた典型的な例だといえるでしょう。
3.観光情報・関ケ原への交通アクセス
「関ヶ原の戦い」の観光拠点となるのは
関ヶ原古戦場記念館https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/
になるので本サイトではこちらへのアクセスを記載します。
・電車の場合
JR関ケ原駅まで
名古屋から東海道本線で約45分
米原駅から東海道本線で約20分
JR関ケ原駅から関ケ原古戦場記念館まで徒歩10分
・自動車の場合
名神高速道路関ケ原ICから約5分
(けっこうアクセスいいんです!)
※関ヶ原古戦場記念館には無料駐車場30台あります
さあ関ケ原古戦場記念館に着いたら史跡巡りに出かけましょう!
史跡は町内に多くあるためレンタサイクルが便利です。
(自動車だと狭い道もあるため)
レンタサイクルは関ケ原古戦場記念館で借りられます。
3-①東軍側史跡
ここでは徳川家康率いる東軍の史跡を紹介していきます。
徳川家康は平野部での大規模な合戦を想定し、兵力の差を最大限に活かす布陣布陣をとりました。
・徳川家康最初陣地(関ケ原町大字野上1424-1)
徳川家康は最初桃配山に布陣しました。
ここは現在国道21号線沿いにありアクセスがとても良いです。また国道を挟んで向かいに駐車場があるので安心です。
・徳川家康最後陣地(関ケ原町大字関ケ原959-2)
ここは関ケ原古戦場記念館の隣に位置するためアクセスは非常に便利です。
・岡山烽火場 黒田長政・竹中重門陣跡(関ケ原町大字関ケ原732-27)
黒田長政と竹中重門の二人の父親は「豊臣秀吉の両兵衛」といわれた黒田官兵衛と竹中半兵衛です。ちなみに竹中半兵衛の居城は菩提山城で関ケ原町のお隣の垂井町にあります。
・松平忠吉・井伊直政陣跡(関ケ原町大字関ケ原908-3)
次に紹介するのは徳川家康の4男松平忠吉と徳川四天王の一人井伊直政の陣です。
・福島正則陣跡(関ケ原町大字松尾111)
ここで紹介する福島正則は猛将として有名でこの戦いでは東軍の先鋒になっています。
3-②西軍側史跡
ここでは石田三成を中心とする西軍の史跡を紹介します。石田三成を中心としたのはあくまで西軍の総大将は大坂城に留まっていた毛利輝元だからです。
西軍は山々に陣取った布陣になっています。
・石田三成陣跡(関ケ原町大字関ケ原4008)
石田三成は笹尾山に布陣しました。下記写真のように現在でも柵や旗が残されており当時を感じられる場所です。また階段を登れば展望台があり周囲を一望できます。駐車場も広いので安心です。
・大谷吉継陣跡(関ケ原町大字山中30-1)
ここで紹介する大谷吉継は石田三成の親友でもあって義に厚い武将とされます。下記写真の顔出しパネルが頭巾姿なのは、大谷吉継が病気を患っており関ケ原の戦いのときには頭巾をかぶらなければならないほど皮膚が崩れ、視力も衰え、自力で歩くこともままならなかった状態で戦場に赴いたからです。
・宇喜多秀家陣跡(関ケ原町大字関ケ原4146-1)
宇喜多秀家は豊臣政権の五大老を務めるほどの人物で西軍の主力部隊を率いていました。
・島津義弘陣跡(関ケ原町大字関ケ原1869-3)
島津義弘は関ケ原の戦いでは積極的に戦おうとはしなかったといわれます。しかし、味方である西軍が敗走を始めるなか敵中突破をする「島津の退き口」が有名です。
・小西行長陣跡(関ケ原町北天満山)
小西行長は開戦地に近い北天満山に布陣しました。小西行長はキリシタン大名としても知られています。キリシタンのため自害することはできず捕らえられて処刑されています。
3-③その他史跡
この章では東軍側、西軍側といえない史跡を紹介していきます。
・決戦地(関ケ原町大字関ケ原1202)
田園の広がる中に関ケ原の戦いの決戦地があります。下記写真のように徳川家の旗と石田家の旗が立っています。
・小早川秀秋陣跡(関ケ原町大字山中731-1)
関ケ原の戦いのカギを握る小早川秀秋は松尾山に布陣しました。山頂にはかつて松尾山城があり関ケ原が眼下に見渡せます。この眺望から東軍・西軍どちらが優勢なのか見極めていたのでしょうか?
松尾山は麓に駐車場がありますが山頂まで行くには片道40分程の登山になります。また関ケ原古戦場記念館からは他の史跡に比べると遠いです。行かれる際は服装と靴に気をつけてください。
4.まとめ
いかがでしたでしょうか!!
関ケ原の戦いの古戦場は近年岐阜県が力を入れて観光地化に取り組んでいます。
皆さんが想像している以上に史跡が各地に残っていると思われたのではないでしょうか。
関ケ原古戦場記念館には関ケ原の戦いに関する面白いグルメやグッズもあります。
そこで、
※関ケ原観光3つのポイント!
①関ケ原古戦場記念館に行く
②関ケ原古戦場記念館で関ケ原の戦いを学ぶ
③自動車or自転車orウォーキングで史跡へ出かける
自分の目で見て肌で感じる!
教科書ではさらっとした記述ですが実際に現地を訪れるとまた違った感情になると思います。全国から多くの武将が兵を引き連れて関ケ原に集結しました。日本の真ん中に位置する関ケ原に、どうぞ足を運んでみてください。
古戦場自体は広すぎず狭すぎない。ですので個人的には自転車がおすすめです。
(自動車だと狭い道もあるため)
あなたの目で肌で歴史ロマンを感じてください!!!
そして岐阜県関ケ原町の場所を覚えてくださいね。
ここまでご覧いただきましてありがとうございました。
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